耽美主義

 

人生で嬉しくて泣いた事はあるだろうか。

 

 

僕は、人生におけるどんな喜びに出会ったときも凡そそんな経験は無かったように思う。

泣いた、と聞いて思い出すのは遠い記憶の父親に論破されて悔しくて涙目になった小さいときの記憶。

それからはるか時を経て、現実を生きていて泣いた覚えはあまり無い。

それが、オタクをするようになってから、涙腺が呼吸をするようになった。

きっと、人間らしくなってきたのだろうと思った。

オタクをしている時ほど感情というものを感じることは無い。豊かすぎる温かな奔流に当の自分が驚く程に。

なんでもない事に幸せを感じること。自分以外の何者かの幸せに自分の幸せ以上に幸せを感じる。

そんなとき、生きてる。と感じる。

自分の人間の輪郭を垣間見る。

 

段々人間になっていく僕が1番人間だったのが今年2020年だったように思う。

歓びに涙した年だった。

 

 

そんな1年の中心にあった人についてまずは話したい。

端的に言うと、僕の推している方は僕以上におそらく“人間する”のが苦手に見られる人だった。

おそらく普通の人間からすると、感情表現において誤解される事が多い個性を持った人。

実際には確かに豊かな感情を持っている。確かに一般的な喜怒哀楽の表現とは異なる部分はあるけれど、だからこそ彼女の見せる喜怒哀楽には型にはめられたり矯正されない純粋な美しさや尊さがあって、僕はそんなところも大きな魅力だと感じている。彼女の笑顔には、そんな唯一無二の可愛さが詰まっている。

 

初めは誤解することもあった。特に他人の感情に繊細な僕にとって大衆と同じ方程式で感情を推し量って誤解してしまっていた。

かわいいと言えば眉間に皺を寄せられるので「なにか気に障ってしまったかな...」となったり、冷たく見える様子を見受ける度に1人で反省会を開いていた。

 

結果として、僕は幸せの沸点を下げてあの人を推していた。元々、あの人は決して自分を推す事を推奨しない人だった。自分を推す人に対して何か施すことも、おそらく誰よりもそういう行為を厭う人だった。

時折あの人はこの言葉を使う。「不相応」だと。

初めはこう受け取っていた。

「それは当たり前な話だ。これだけの才と美を持った奇跡のような人なんだ。僕は推すにしても相応な訳が無い」

 

 

 

 

 

それでも、1年半の時を経て。

2019年の大晦日に、僕はあの人の事を初めて推しと呼んだ。

それはある種の覚悟だった。

1年の記録とチェキの話 - 月が綺麗だった日

1つ1つ防衛線を引いていた僕の最後に残された大きな2つの線引きの1つを、これから超えて全て背負う事を他の誰でもない自分に誓った。

 

 

 

 

 

何故、あの人の事を推すのか。

 

これは懺悔にもなるけれど、僕は自分の性質上相手の感情の機微を感じ取ってしまう。快く迎えてくれた人の目が次第に温度を下げていく事が何より辛く感じる。それ故に、とある人に対して毎回会うよりも多少間を空けて合う方が格段に喜んでくれることに気づいて、敢えて嫌われないように会う頻度を調整した事があった。おそらくこれは誰に対しても正解で、これこそが適切な距離感というものなのだろうと1年程この空間に来る中で知った。

新しい人や話していない人を優先するのは当たり前に理解しているしそこは何も感じない。それでも、帰ってきたときに冷めた目で見られる事だけは辛すぎて逃げ出したくなる。それは自分の状態が不健全だという事実に他ならない。そんな風に受け取ってしまう状態になってはいけないのだ。リスク管理としての、適度な頻度だ。

理解していた。

 

その上で、自分への見返りの最適化など度外視であの人に会いたかった。あの人の笑う空間に帰りたかった。

何度会っても色褪せないあの人と過ごす時間が僕を人間足らしめる温度にいつしかなっていた。

理由は後付けでいくらでも考えられる。でも、何故は先にない。

 

それが全てだった。

 

論理や理屈で人生を選択してきた。しかしそんなことよりこの感情を、この純粋な美にある唯一無二の価値としてその世界に心を傾け陶酔したいと思えた。

 

後に知ることとなる言葉だが、人はそれを耽美というらしい。

ただ純粋に今しか立ち会えないこの美しい物語を、自分の中で唯一尊いと思える自分の感情を何より大切にしたいと思った。その為なら自分の残りの人生の幾らか程度、フルベットしたって構わない。

 

幸福とは美しい思い出を持ってるかにかかっている。心の中にそれをよすがにして何十年と生きていけるような思い出を持つ事が出来ればその人生はハッピーエンドなのではないだろうか。

 

 

推しという言葉と共に始まった僕の耽美主義。

振り返るとこの一年はあの人の事を見る以上に一緒に同じ方向を見据えて過ごすことが多かったように思う。

一緒に好きなものを共有することが多くなった。

好きなゲーム、好きな食べ物、好きなキャラ、好きな海外ドラマ、好きなYouTuber、好きな漫画、推しの話。お互い「聞いてくださいよ。」から始まる会話が増えた。

 

同じ方向を向いて大切なものを守る戦友のようにも思えた。幾度となく立ちはだかる障害を共に(と言える自信はないけれど)乗り越えてきた。僕以上に圧倒的に献身的に頑張ってきたのはあの人で、僕の目にその努力は確かに写っていた。皆まで言わずとも長の右手として支え続けて、やりたがらない裏方としても人知れず努力を重ねていた。見た目以上にとてつもなく大変な動画制作を何本もやっていた。眠れない夜もあったと思う。それは単なる昼夜逆転か。

新しい試みにもいち早く協力して実現したことオンラインお給仕にも本気で貢献していた。

飄々としているように見えて、彼女のこの空間を大切に思う気持ち。この空間への愛はとてつもなく大きかった。

気持ちは同じだった。僕はシャルが好きだから。彼女の直向きな努力が僕の胸を打ち続けていた。自分も応えたいと鼓舞された部分は大きい。その気持ちに僕も応えたいと思った。シャルの為なら何でもする。

一緒に乗り越えられたこと。それ自体が一生忘れられないかけがえのない宝物だ。

 

こんなご時世にも変わりないあの平和を取り戻すことが出来て一緒にまた笑えた夜、僕はチェキを見返しながら人知れず涙を零した。

幸せを感じられた。

なんて事ないこんな時間が、この日々が。

他愛のない話やくだらない話しかしていない。

僕の些細な言動にウケる。と言われるのが口癖になっているくらいに平凡な日常に幸せを感じる。

非日常の中にこそここにある日常が輝いていた。

本当に、ずっとこの平和が、僕たちの日常が続いてほしいと願うばかりだった。

 

 

そんな嵐がようやく落ち着いた折には、僕の誕生日があった。

これまで僕の誕生日にあの人がいた事は無かった。

それは別に当たり前だしいてくれるなんて贅沢を望むのは欲張りだと思っていた。

だから、今年もいないと思い込むようにして予防線を引いていた。勝手に期待して傷つくのが嫌だった。

「いない。ごめんなさい」、と前日聞いたときもおかげで笑顔を浮かべることが出来た。

笑顔を浮かべながらも、当日はなるべく思い出さないようにあの空間から距離を置いて予定を詰め込んだ。

 

 

 

 

それでも、切り忘れた当日のオープンツイートの通知を見たとき、あの人の名前があった。

 

 

慌てて誕生日(祝ってくれてありがとう)プレゼントを買って駆けつけた。

あの人は微笑みながら「おかえりなさい。当日祝えて嬉しい」と。

 

無理だって。無理だよそんなの。

沸点を下げてきた。こんなの知らないからさ。

僕は馬鹿だから、気付けば涙を堪えきれなかった。

「いるじゃないですか、、、」と第一声から涙声になりかける自分は本当に滑稽だっただろう。

しかし温かく見守られるこの空間は紛れもなく僕の帰る場所だった。

 

僕の1番大切な人と、家族のような皆と一緒に過ごせた誕生日は、人生で1番幸せな日だった。

 

僕にとっては何より大切で、いつも楽しませたいし喜ばせてあげたい人。

笑ってるのを見るだけで、生きてくれているだけで幸せになれる人。

そんな人が僕の存在を祝ってくれる。

自分が傷つかない事だけを考えて装備していた臆病センサーをそっと切った。期待することは怖い事だ。何かを求める事は間違っていると思い込んでいたけれど、あの日僕のことを大切に思ってくれた。そんなように僕は受け取ることが出来た。

あの人は、メイドなんだ。と思った。

僕の中では世界一のメイドさんだ。 

 

次はお返しをする番だ。

誕生日に向けて、とにかく四六時中あの人がどうしたら喜ぶか、幸せになれるか考え続ける日々を過ごした。

自分に出来ること、自分にしか出来ないこと。

僕にあるのは、あの人と過ごしてきた時間。あとは行動力くらい。特別な器用さは一切無い。

あの人との会話で回収していない伏線をリストアップしたり、好きと言っていたものからいくつもプランを考えた。考え尽くした。毎週週末は各所に物色しに行った。それでも当日まで自信はまるで無かった。

待ちに待ったバースデーイベントは、またしても僕の期待の斜め上をいく素晴らしいものだった。

僕自身彼女の豊かな遊び心が存分に巡らされた空間を存分に楽しんだ。あの人は可愛すぎて困ったし、ずっとお手伝いメイドさんにあの人の事を凄いね、凄いんだ。と褒め倒す僕はもっと困ったものだっただろう。

何より幸せを感じられた理由は彼女がずっと楽しそうにしていたから。やりたいようにやって楽しんでいる姿は本当に魅力的だったし、協力してくれるメイドさん達の事を鼻高々に紹介している姿は紛れもなく皆の輪の中心で、嬉しくなった。

この時間の全てが大切で尊くて、沢山チェキを撮って思い出に残した。

 

イベントももう終わる。

そんな時に、彼女は必死に声を投げかけていた。

物販が1つ売れ残っていた。

欲しい。けれど僕はもう既に買っている。他の人に譲ろう。そんなことを考えていても時は過ぎていくだけだった。

脳裏に浮かぶのはイベント前のお給仕で期待に胸を膨らませながら話す彼女の笑顔。「今回新しい試みをするんですよ。」「一緒にご飯とか旅行に連れて行って欲しいんですよ。」「頑張って作った。」

あの人の為と独りよがりに行動し続けるのは僕の悪い癖だ。でも、どうしようもない。

 

僕は彼女に向けて手を挙げていた。

 

 

 

 

 

それは、初めて向けられる顔だった。見たことがない顔。

数刻前に息を呑んだ圧倒的な美しさは眩しくて、

遠い星のお姫様だな、やっぱり。と思った。

 

けれど、今目の前には1人の等身大の少女が立っていた。

そこからの時間を言葉にする事は難しい。

きっと、僕はこの瞬間の為に生きてきたのだと思う。

感謝の言葉と共に、最後のプレゼントを贈った。

 

あの日、僕は人生で最も美しい物語に立ち会えた。

僕は決して主役じゃない。

彼女が主役の物語で、彼女が報われることだけをただ祈っている観客。

まだきっと彼女は旅の途中で、目指すしている所はまだ遠いかもしれない。

自分の積み上げてきたものに満足するには至らないかもしれない。

それでも、今日は存分に自分を受け入れて良い日のはずだ。

僕の瞳に写るあの人はとっくに、人を幸せに出来る、人の支えとなれるような素敵なメイドなのだから。

全力でこの場所を守り抜いた。

どんな時もご主人様達を笑顔にし続けた。

シャルを心から愛していて、心から楽しんで過ごすその笑顔は無くてはならないシャルロッテそのものになっていた。

 

彼女のバースデーの成功が嬉しくて、彼女の直向きな軌跡が身を結んだ瞬間に立ち会えたことが幸せだった。

そして、それ以上に彼女自身が幸せになれたことが至上の喜びだった。

あの日流した涙を忘れない。

僕の人生で最も美しい思い出だ。

僕の人生はこれで終わり。もう何も望むものは無い。

幸せな、人生だった。

 

 

 

 

エピローグ

 

手元に残っていたポイントカードを使って、メッセージ動画をお願いした。

内容は“お任せ”。彼女が自分で紡いでくれる言葉が好きだから、そして毎回期待以上の作品を届けてくれる彼女を信頼して今回も内容は指定しなかった。

これがあの日の終止符となって、

これにて本当に一件落着。

そんな風に漠然に考えながら、彼女のメッセージを待った。

余談だが、この動画の為に新型のiPhoneを契約してきた。撮る前から、これ以上に価値のある動画はきっとこれまでもこれからも無いと思ったから。

そんなiPhoneがお役目を果たして返ってきて。家に帰りついて2時間ほどかけて覚悟を決めた上で動画を再生した。

 

彼女らしさが詰まった動画だった。

直接的な言葉は一切使わない。「電車の中では見れない」等の婉曲すぎる表現には“らし過ぎて”思わず口角が上がった。

だが、そこじゃなかった。

言葉を遥かに凌駕して、終始嬉しそうに語っている様子にどうしようもなく幸せになった。

明日仕事にも関わらず大の大人が一晩近く泣き腫らしたのは、ここだけの話にしておきたい。

 

 

彼女は最後に“これから”について言葉を紡いだ。

それは今まで聞いたこともない彼女の言葉だった。

 

こんなに綺麗な起承転結を描いたのに。

そんな言葉を聞いたら、また始まってしまうじゃないですか。

明日を楽しみにする日々が。

 

僕の計算とは大きく外れて、今過去最高にまた会えるのを楽しみにしている自分がここにいる。

 

 

 

今、生きているのを感じる。

人間をしている。

 

まったく、これだから。

 

僕の“推し”は、世界一の自慢の“推し”だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんてオタク語彙になってしまうじゃないですか。

 

 

 

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